東山さんは生きている

徒然なるままにその日暮らし

ミニマリストなのですか

ミニマリストの目覚め

ここ二三年「ミニマリスト」という言葉をよく耳にした。最小限主義という意味で、本当に必要なものしか持たない人々のことを指す言葉だそうだ。私がこの言葉を始めて耳にしたのは三年前なので、ちょうど世の中にミニマリストブームみたいなものが起こり始めたころだったんじゃないだろうか。

当時特にむしゃくしゃしていた私の部屋はマックスキタねー状態だった。ゴミこそないが、書類やマンガ、本、CDが散乱し、タンスは着ない服でいっぱいだった。とうに捨てたと思っていたTシャツが、タンスの奥からしわくちゃに圧縮されて出てきた時は、自分の持ち物のはずなのになぜかハズレくじを引いたような気分になったものだ。ミニマリストの考えを知った私は、思いのほかあっさり「ほな捨ててみまひょ」とそのTシャツを捨ててしまった。もともとないと思っていたのだから、捨てるのがもっとも正しい選択だと思ったのだ。

 

 

ミニマル中毒へ

さてこの「もともとないと思っていた」物、見渡せば部屋中にあった。タンスの中の服の6割は着ていなかったし、何足もある靴の中で一週間に一度は絶対に使う靴というのは殆どなかった。よく考えれば、使っていない化粧品だってたくさんあったのだ。すべて処分した。使っていないということは、“無い”ということと同じことなのだ。そしてそこに“ある”のに使って“無い”のであれば、名実共に“無い”状態に戻すことが適切であるように思われたのだ。この部屋を元の状態に戻してやるのだ。

そのことに気付いてから、私はどんどん物を処分し始めた。タンスとチェストを捨てた。靴もカバンも食器もマンガもCDも、それぞれ売るなりして処分した。売却することによって戻ってきたお金は、手に入れるために使った金額のほんの数十分の一程度だったが、そんなことより部屋がどんどん綺麗になっていく実感が快感となっていた。

そこから一時期、捨てることの虜になっていた。「捨てるものはねが~」と部屋を徘徊することが日課となっていった。捨てることで心がリフレッシュされていたはずなのに、今度は捨てることに心を縛られていたのだ。

 

 

主義ではなく、結果としてのミニマルであること

そういう生活には飽き飽きした。というか疲れたのだ。「この洗剤は服も洗えて髪も洗えて食器洗いやお風呂掃除にも使える!」という商品は魅力的だが、結局それらを小分けにする容器を買わねばならないし(買わねば“ならない”と未だに考えてしまう)、やはり食器は食器用洗剤に限る、というのが私の本音だった。それを曲げてまでミニマリストである必要はないのだ。

現在はミニマリストであろうとするのではなく、結果としてのミニマルであること」を目標にしている。衣類洗剤は衣類洗剤、食器用洗剤は食器用洗剤で使い分けをしている。電子レンジだって冷蔵庫だって持っている。

これは世のミニマリストの指針には反するかもしれない。けれども、私にはこれが快適だった。

では何をもってして「結果としてのミニマル」なのだろうか?私の考えはとにかく「ストック主義をやめる」ことだ。生活するうえで欠かせないものがあるだろう。しかしむやみにストックしすぎてはいないだろうか。かく言う私もストック主義であった。なぜかというに「ストックが沢山あると安心する」からだった。ストックが心の支えになっているのだ。でも、しかし、とは言え、「いま、あなたの家、洗濯洗剤のストックいくつある?」という質問に即答できるストック主義者はそれほど多くないだろう。つまり、私を含め多くの人が自分の持ち物を把握していないのだ。

無論、ストックが好きでたまらない、ストックを見ているとうっとりできる!という方はそれでいいのだ。そういう人にとってはストックは宝物なのだ。だた、もしあなたが単に「ストックしなければならない」という思い込みから「ストックがいっぱいで棚に収まりきらない・・・」「行き場を無くして床に置かれたストックを見てはため息・・・」「ストックのせいで部屋が片付かない・・・」と思っているのならば、ストックをやめてみるといいかもしれない。無くなったら買いにいく。なんとも単純だ。しかしこれが私の「結果としてミニマル」な姿なのだ。